私のデザインは、風のようで水のようなもの。
常に揺れ動かされ、揺られているかのようでいて、自分のコアなるものを見つめているもう一人の私の存在が横に
いました。
なぜ、自分自身で揺らされ、揺さぶられているのか、、、
なぜそのようになるかはわからず、、、いつも悲しい思い、
それとは裏腹に笑顔をつくり、無理なく生きているかのように過ごしていました。
でも、私は心の中で一人ボッチだったのです。
夕方、陽が沈んでくるたびに、明日は生きているのか死んでいるのか、楽しめているか、それとも自分を押えていられるかと、、、幾度となく考え、自分の胸に収めていました。家族は何にも考えていない風に私を捉えて、わたしを強い人間だと思っていました。
「まあ、あんたは大丈夫よね!」って。ほっとかれた記憶は実際にあったにせよ、ほっておかれたことを私は問題にはしていませんでしたし、問題だとも思っていました。
ただなぜか、その時間は私の創造性を探究するに当たり、とても貴重な経験だったとも今では思えてなりません。
それは、自分が“そういう人間”だということを知ったからです。
これは悩みではなく、そのように考え捉えることで自分を育成していくうえにおいて、とても重要だったのだと今では感じでいます。
確かに思い返せば、一人ボッチだと悲しい気持ちを強く感じた事件はありました。それは、幼稚園でお弁当を持たされてなく、パンの注文もされてなく、お腹が空いた私は先生に無理やり食べさせてもらった記憶があります。私の後ろで園長先生含め先生方の混迷の姿に、小さい私は少し悲しい記憶として残っていますが、、、孤独ということを感じたのは丁度この頃でしょうか。
一人ボッチが悲しいと思っている時は、実は私自身がNot Selfなんだと、この頃感じるようになりました。
「Not Self」とは、自分が自分でない時の状態です。
私は一人ボッチでも、マインドが遊び場で、そのクリエイティブな世界を最も有効に楽しめるすべを持っています。実際に一人ボッチだと思う時、たまにさみしさを感じたりはしますが、次の瞬間、違う世界を旅している自分にあきれる場合もあります。
人はそれを逃げというかもしれませんが、、、その時間が私をつくり、構成していけるプロセスとなっているのですから、わたしには、必要不可欠な状態なのです。そうでないと、次のステップには行けない、、、そんな自分を感じることで、自分の中から産みだされた「それ」は、人々へ貢献していけるアイディアや情報として役になっていくのだと思うのです。
こういう人間がこの世の中にいてもいいよね?
私は私の知るすべてを出し尽くすことに自分のエネルギーが注がれています。それは、あなたの刺激となりあなたを反応させていくことにもつながるかもと思うと、こちらはとても嬉しいのです。
そうなるかならないかは関係ありません。ただそう思うことが私なのです。
ゆるく、揺れている自分とは別に、自分のコアなるものがそのように私を押し出してくれています。
時に両極端な自分は周りの人にとっては摩訶不思議なキャラクターとして扱われますが、そのような自分を無理なく生きていられる自分の「素」の力のサポートだと思っています。
私は他の人をサポートはしません。私は私自身を身に着けた(もともと持っている本質の)ものにより自分でサポートをします。
私は、他の人にシェアをしていきます。ドンドン情報を出していきます。
それがあなたにとっての面白い刺激となれば嬉しいのです。
ただそれだけです。私は私を生きていきます。